今も江戸の香りを残す東京の浅草・蔵前・両国・根津・吉原。これらの地名にもちろん由来があり、長き歴史をもつその起源を本記事では紹介していく。
直到现在,东京地区的浅草、藏前、两国、根津和吉原仍然保留着江户的气息。当然,这些地名都有其渊源,本文将介绍其悠久历史的由来。
隅田川右岸から寛永寺・根津へ至る下町
从隅田川右岸到宽永寺和根津的市中心地区
浅草・下谷(したや)エリアは現在では下町のイメージが強いが、当初は下町でも山の手でもない地域だった。江戸の拡大に伴い、新たに下町化したエリアと表現した方が正確だろう。主に平坦な地勢で、江戸湾や隅田川にも近いため低地が多かった。現在の行政単位では主に台東区となる。
今天,浅草·下谷地区在人们心中留下了强烈的市中心形象,但在最初,它既不是市中心,也不是住宅密集区。更准确的说法是,随着江户的扩张,它是一个新转变为市中心的地区。大部分地区地形平坦,但由于靠近江户湾和隅田川,有很多低洼地带。现在的主要行政单位在台东区。
まずは現在の浅草にあたるエリアから見ていこう。
让我们首先从现在的浅草地区开始。
浅草正式名称は金龍山浅草寺という江戸で最古の寺院。上図の赤枠部分は、雷門から本堂に至る場所だ。家康が祈祷所に定めてから現在まで、参詣者の絶えない名所。(国立国会図書館蔵)
浅草,正式名称为金龙山浅草寺,是江户最古老的寺庙。上面地图上的红框表示从雷门(浅草景点)到寺院正殿的区域。自从德川家康将其指定为祈祷场所以来,它一直是一个受欢迎的名胜古迹。(国立国会图书馆收藏)
『名所江戸百景浅草金竜山』に描かれた浅草。(国立国会図書館蔵)
《江户名胜百景浅草金龙山》中描绘的浅草。(国立国会图书馆收藏)
隅田川右岸に拡がる浅草の地名は、草深い武蔵野のなかでは草深くなかったエリアだったことを語源とする説が有力ともいう。草深くない、つまり草が浅いということである。隅田川に近いため、もともと低湿地だったからだろう。そのほか、海を越すという意味を持つアイヌ語の「アツアクサ」、聖者のいる場所を意味するチベット語の「アーシャ・クシャ」に由来するなどの説がある。
浅草这个名字,沿着隅田川的右岸延伸,据说是来源于武藏野的一个地区,那里的草不深。换句话说,草是浅的。这可能是因为它原本是一个低矮的沼泽地,因为它靠近隅田川。其他解释包括阿伊努语“Atsuakusa”,意思是“渡海”,以及藏语“Asha-Kusha”,意思是“圣人的地方”。
隅田川左岸に拡がる両国の地名は隅田川に架かる両国橋に由来する。明暦の大火後に隅田川右岸にあたる下町と、隅田川左岸の本所を結ぶ橋が架けられたが、当時本所は武蔵国ではなく下総国に含まれていた。武蔵・下総両国を結ぶ橋であったため、その名も両国橋となり、界隈のエリアが両国と呼ばれるようになった。その後、隅田川右岸側の両国は消え、左岸側の両国が地名として残り現在に至る。
两国的名字,是从沿着隅田川左岸延伸到隅田川上的“两国桥”而来的。明历大火之后,在隅田川右岸的下町和隅田川左岸的本所之间修建了一座桥,但当时本庄属于下总国,而不是武藏国。因为这座桥同时连接了武藏和下总,所以它被命名为“两国桥”,该地区被称为两国。后来,隅田川右岸的两国消失了,左岸的两国仍作为地名存在。
蔵前幕府が全国から徴収した年貢米を納めていた倉庫「御蔵」があったことが、蔵前の地名の由来。隅田川を埋め立てた地にあり、8本の船入れ堀を設置して荷揚げした。川岸にある「首尾の松」という松の木は、吉原帰りの客が松の下で舟を泊め、遊女との首尾(事の始終)を語り合ったことからこう呼ばれた。(国立国会図書館蔵)
藏前,这个名字来源于幕府储存每年从日本各地收集的贡米的仓库—“御藏”。它位于隅田川的填海土地上,并且周围修建了八条护城河来卸载货物。河岸上的松树被称为“首尾的松树”,之所以这样称呼,是因为从吉原回来的客人会在松树下的船上停留,谈论与艺妓的“首尾(与艺妓相处从开始到结束的过程)”。(国立国会图书馆收藏)
浅草の南にあたる蔵前(くらまえ)は隅田川右岸に拡がる町だが、江戸時代には幕府が全国から徴収した年貢米を納める蔵が川沿いに立ち並んでいた。幕府の米蔵の前には多くの米問屋などが店舗を構えたが、その様子を指して、このエリアが蔵前と総称されるようになり、町名にもなった。
藏前位于隅田川右岸的浅草南部,沿河有许多仓库,幕府从日本各地征集的贡米就存放在这里。许多大米批发商在幕府的大米仓库前开店,该地区被统称为“仓前”,随后成为该地区的名字。
浅草の北にある吉原の名前の由来は遊郭が置かれていたからだが、もともとは日本橋にあった。市中に散在していた遊女屋を集めた場所が低湿地で葭(よし。イネ科の草)が一面に生い茂っていたことから葭原と呼ばれたが、やがて吉原と改められる。その後、幕府の命により遊郭は浅草の北に移転したのである。
浅草以北的吉原,因位于那里的妓院而得名,但它最初是在日本桥,散落在城市各处的妓院都聚集在一个低矮沼泽地里,而由于沼泽地里生长着茂密的“葭(蒲葵科的一种草,类似芦苇)”,所以被称为“葭原”,但最终被改名为“吉原”。后来,在幕府的命令下,这些妓院被搬到了浅草的北部。
山の手にあたる湯島は武蔵野台地の一角を占めるが、すでに平安時代には豊島郡湯島郷(としまぐんゆしまごう)という地名が『和名抄(わみょうしょう)』という記録で確認できる。その由来だが、江戸湾から島のように見えたからという説。温泉が湧いたことが語源などの説がある。
汤岛的山区是武藏野台地的一部分,早在平安时代(794-1185年),《和名抄》(又称《和名类聚抄》,日本最早的百科全书)中就记载了汤岛乡(丰岛郡汤岛乡)这个名字。据说这个名字的由来是因为它看起来像江户湾的一个岛屿。还有一种说法是,这个名字起源于该地涌现的一个温泉。
根津
地名の由来説のひとつが根津神社にある。社殿は宝永2年(1705)5代将軍綱吉が甥の綱豊(のちの6代家宣)を養嗣子に定めた際、同社に屋敷地を献納し造営したもの。(国立国会図書館蔵)
关于根津这个名字的起源,其中一个说法是来自于“根津神社”。神社是由第五代将军纲吉于宝永2年(1705)建造的,他在收养他的侄子纲富(后来的第六代将军)作为他的继承人时,将他的土地捐赠出来建造神社。(国立国会图书馆收藏)
湯島の北にあたる根津(ねづ)の由来についてはふたつの説がある。一つは根津神社が鎮座しているため、そのエリアが根津と名付けられた説で、もう一つは地形に由来する説だ。このエリアが丘陵の根元にあたるとともに、港を意味する津があったため、合わせて根津になったというもの。かつては、このエリアまで海が迫っていたからである。
关于汤岛以北的根津的起源,有两种说法:一种说法是该地区被命名为根津,因为它是根津神社的所在地,另一种说法是这个名字来自地形。该地区被命名为根津是因为它位于一个山脚下而且有一个港口,因为大海曾经靠近这个地区。
監修・文/安藤優一郎
(『歴史人』1月号「地名の歴史をたどる」より)
编写:安藤优一郎
(摘自《历史人》1月刊,“追溯地名的历史”)
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